海援隊と岩崎彌太郎と麒麟ビール

 私の住んでいる府中町にあるキリンビールの醸造所「キリン広島ブルワリー」が8月末で閉鎖され、72年のビール製造の歴史を閉じた。この麒麟ビールも三菱財閥である。

 昨年9月、三菱の第二代社長岩崎彌之助の建てた三菱一号館が一世紀を経て煉瓦造り、石造りで構造、間取り、素材や意匠等、できる限り明治時代の竣工当時のままに復元・再建され公開されたが、その三菱一号館美術館が今年4月6日東京丸の内にオープンした。会館記念展(Ⅰ)「マネとモダン・パリ展」は7月5日まで開催され、美術館記念展(Ⅱ)「三菱が夢見た美術館」~岩崎家と三菱ゆかりのコレクション~は、現在開催されている。

 私が訪れた9月半ばは、三菱財団の所有するミレー、ルノワール、ドガやモネの絵画の展示、そして三菱の静嘉堂文庫、東洋文庫所蔵の絵画(黒田清輝、安井曾太郎、梅原龍三郎、岸田劉生、坂本繁二郎等)や陶磁器、書画骨董も出展されていた。残念ながら国宝の曜変転目茶碗(稲葉天目)は他の展示会に出されて今回は鑑賞できなかったが、数奇な運命を辿った唐物茄子茶入・付藻茄子(松永茄子)は出展されていた。書籍では毛詩、文選集注などの国宝や、マルコポーロの東方見聞録、デフォーのロビンソン・クルソー漂流記、あるいは16世紀の世界地図に混じって、ヨハン・アダムス・クルムのターヘル・アナトミアと杉田玄白の解体新書(1774)が並列されて陳列されていた。ターヘル・アナトミアには、今まさに解剖が始まる場面が描かれており、当時のヨーロッパでは解剖は見世物の一つであった。

 展示の中に、海援隊が出版した英語教科書『和英通韻伊呂波便覧』を見つけた。10月10日のNHK大河ドラマ「龍馬伝」の「さらば高杉晋作」の中で、ヒーローの龍馬と対峙する岩崎彌太郎は、亀山社中が海援隊と名を改めた際に、経理担当となったことを隊員の皆の前で披露し「後藤象二郎様に感謝せよ」と口上を述べている。史実では、この時が彌太郎と龍馬との最初の出会いといわれている。『和英通韻伊呂波便覧』は和英対照・発音入門ハンドブックである。海援隊士たちが商売で得た知識と経験から万国公法(国際法)をはじめ、商売に役立つ政治・法律・経済などさまざまな技術情報のイロハを書籍にして出版する準備をしていたといわれ、この便覧はその一つである。「いろは丸事件」では、龍馬はこの万国公法の知識を遺憾なく発揮して8万3千両の賠償金を得た。しかしこの本が出版されたのは、1867年11月15日龍馬が暗殺された後で、海援隊が解散させられた1868年4月27日のわずかな期間であり、龍馬の遺志を継ぐ第2代海援隊隊長・長岡謙吉をはじめとする隊士たちにより出版された。海援隊はその後土佐商会が引き継ぎ、彌太郎は九十九商会・三菱商会・郵便汽船三菱会社(後の日本郵船株式会社)・三菱商事など、三菱財閥を興し、明治期に日本の近代化、西洋化とともに政商として成長していった。

 今回の会館記念展(Ⅱ)では「人の中へ 町の中へ」と題して、日本郵船や大正から昭和の麒麟麦酒のポスターも広告デザインとして展示されている。1869年(明治2年)ノルウェー系アメリカ人ウイリアム・コープランドが、日本で初めて大衆向けにビールを醸造・販売した企業「スプリング・バリー・ブルワリー(コープランドビール)」を起源とする、日本のビール事業の草分け的企業を、幾多の変遷を経て、1907年(明治40年)に三菱財閥傘下の日本国籍会社「麒麟麦酒」として新発足している。府中村から府中町になった翌年、1938年(昭和13年)に府中工場はビールの醸造を開始している。当時その工場は東洋一であったという。72年にわたり府中町を支えて来たキリンビールの灯が消えたが、時代とともに変革してきた三菱・麒麟は現在大型ショッピングセンターとして多くのお客を迎えている。風向きによって漂っていた、あのホップの匂いが懐かしく思い出される。

菅田 巌

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